日ごろのモヤモヤ
身体的特徴で分けられた「男性」「女性」と自身の性自認が違う人がいる。
人を愛すると言っても「異性愛者」「同性愛者」「異性も同性も愛する人」とさまざまである。
これだけのことのはずなのに、どうして自分と違う人のことを否定するんだろう…?
なんで多数派を「普通」と表して、そこと違うと「弱者」になるんだろう…?
今までトランスジェンダーの方の話を聞いたり、本を読んだり…そして今回『同性婚』を読みながらハッと気が付いたことは、わたしは「少数派」の人を認められない!と否定的な人の考えが分からないのだから、その人たちの話を聞いた方がいいのかもしれない、ということでした。
理解できない、する気がない、でも相手は少数派なんだからそれでいい。そんな暴力的な考えは自分が「普通」だと思っているからなのか、「普通」から外れることが怖いからなのか。
他者が誰を愛して誰と暮らそうが、問題ないはずなのに、なぜその幸せを否定したり、奪ったり、与えようとしないんだろう?
そもそも日本は?他人に過干渉だなと思います。
不躾に「普通」を押し付けてこられる経験をしたことのある人はきっと少なくないですよね。
一定の年齢を超えると「彼氏はいるの?」「結婚しないの?」「子どもは?」「二人目は?」「母乳なの?」「女の子もいたほうがいいよ」。
もう、この文化を変えていかないといけないですよね。願わくば光の速さで。
『同性婚』を読んで
同僚のオススメが並んでいる「オススメの本棚」で目に留まったこちらを読み、感じたことを今日は残しておこうと思います。
同性パートナーへの財産遺贈 ~「当たり前」のない生活~
ところで私は、同性カップルの遺言については、自筆証書遺言ではなく公正証書遺言による遺言の作成を強く勧める。
(第二章 同性愛者からの法律相談 P77より引用)
こういう方法があるのか…!という新しい知識でした。
日本は戸籍の持つ効力がとても強いなと感じていましたが、公正証書遺言で「遺贈」が出来るんですね。こういうことって、知らないし、必死で調べてたどり着くような気がします。
そして、このような方法があって良かったと思う一方で、法的に「パートナー」と認められていれば、こんな手続きもいらないのにな…という思いも。
本当の関係性なんて本人たちにしか分からないのに…分からないから?「戸籍」という証明が強い効力をもっているんでしょうか。
目の前にいる2人(同性であれ異性であれ)がパートナーとして生活しているけれど戸籍上ではつながりがない、戸籍上はつながりがあるけれど実際の関係性は破綻している、それでも後者には保障があるんですよね。
否定されることによる傷つき
上記で引用した以外にも、同性カップルであることからスムーズにいかない緊急事態時の対応例がいくつか紹介されているのですが、現実としてはパートナーでありお互いに信頼し合っているのに、それを疑うこと、否定することは、「存在や人間性を否定すること」だということは、もっと問題視されるべきだなと思います。
(第二章 同性愛者からの法律相談 P108より引用)
この一文だけでも、「おかしいな」と思うに足ると思います。
代替の方法があるならいいじゃん、という問題ではないですよね。
法律の不備・抜け漏れ
そんなことはわざわざ検索するまでもなく、想像できたことである。法律では同性カップルが家族として生活していることはもとより、同性愛者が存在していることすら、想定されていない。
なぜわたしが結婚したのか
本著内で、大学のゼミで学生に「みんなは結婚したいと思う?」と問いかけ、その返答を紹介する場面が出てきました。
わたしは結婚しているんだけど、なぜ結婚したのかというと…
「子どもが欲しいと思っていて、そうなると結婚していた方が法的にスムーズだから」ということが一番大きいです。(結婚が決まった時に仲のいい先輩に問われた時もこのように応えました。)
もちろん夫のことが好きで、人生のパートナーとして歩んでいきたいと思っていたからこそですが、でも、それだけだったら「結婚」でなくてもありなんですよね。それでもやっぱり、お互いに何かあった時に婚姻関係にあるほうがスムーズ…。
人生のパートナーも、必ずしも異性でなくてもいいなとも思っていました。
出産を経験してみたいなとは思っていましたが、親子関係も血縁であることにこだわりはなかったですし…でも、養子を迎えるにしても、やっぱり婚姻関係にあるほうがスムーズ…。
婚姻関係って、なんでしょうね。
異性カップルにだけ与えられている特権のように思えてしまって、頭をひねっています。「多数」だからという理由で存在する特権って、平等・公平じゃないですよね。
もう少し続きそうなので、また明日記事にしようと思います☺